SUITA市民しんぶんVol.2(2006)
沖縄戦の戦跡や米軍基地を案内する平和ツアーを企画し、ガイドを務めている真栄田義且さん(69)=吹田市青山台=と知り合って、10年以上になる。折に触れて取材させてもらってきたが、改めて沖縄と向き合ってきた半生を聞いた。
真栄田さんは1954年、高校3年の時に那覇から大阪へ引っ越してきた。理由は「食うていけんから」。転校の日が雨で、「みんなハイカラな雨靴なのに、おれは長靴」だったのを覚えている。
その当時、沖縄では米軍がブルドーザーで土地を強制収用し、農民が抗議のデモ行進するなど、騒然としていた。真栄田さんも那覇高校の同級生とサークルを作り、復帰問題を論じ合っていた。大阪でも高校卒業後、印刷会社に勤めながら、沖縄県人でつくる「沖縄の土地を守る会」に入り、あちこちに呼ばれて沖縄の話をして回った。
そんな真栄田さんが、さらに目を見開くきっかけになったのが、78年の印刷会社労組の沖縄ツアーだった。安仁屋政昭・沖縄国際大教授が主宰する「沖縄戦を考える会」のメンバーの案内で、沖縄戦の戦跡を見て回った。野戦病院の分院で、白梅学徒隊(県立第二高等女学校の女学生たち)が配備されていたガラビ壕では、重傷者数百人が青酸カリで処置された。米軍基地も初めて回った。
摩文仁の丘には、沖縄守備軍の第32軍司令官、牛島中将の写真が飾られ、バスガイドは戦跡を軍国美談調で案内する、そんな時代だった。それまでの沖縄戦の記述は軍中心だったが、「住民の視点で考えよう」という姿勢が新鮮だった。なにより、沖縄で生まれながら知らないことが多かった。よみがえってきたのは、少年時代の記憶だった。
44年8月、真栄田さん一家は山口県に疎開した。前月に閣議決定で、老幼婦女子10万人を疎開させる命令が出たからだ。国民学校3年の真栄田さんは遠足気分で、船中を兄と探検して回っていたが、近海は米潜水艦が出没し、制海権が既に米軍に握られていた。真栄田さんらを乗せた軍用船「一進丸」が出港して10日ほど後、学童疎開船「対馬丸」が学童790人を乗せて那覇港を出港した。8月22日午後10時ごろ、鹿児島・悪石島沖で米潜水艦ボーフィン号の魚雷を受けて沈没した。対馬丸には、真栄田さんが毎日のように遊んでいた島袋全二郎さんが乗っていた。
47年10月、沖縄に戻った真栄田さんは、国際通で島袋さんのお母さんと出会った。いきなり抱き、号泣した。疎開船の沈没は、軍機として厳しい箝口令が敷かれ、戦後もおおっぴらに口にはできなかった。当時は死は遠いものだった。「対馬丸に乗らんでよかったなあ」くらいにしか思わなかったが、齢を重ね、戦跡をたどってみて、対馬丸の学童は、なぜ死なねばならなかったのか、に思いをはせた。「軍の食糧確保のための犠牲やった。足手まといになる老幼婦女子は排除されたわけです」。沖縄県の疎開命令の文書には「食料事情のため」と明記されている。
「沖縄に戦争が来るなんて、県民には知らされていなかった。指導者は知っていたんですよ。米潜水艦がうようよしていて、疎開船が沈められて死ぬかもしれないことを。未必の故意です」
対馬丸のような戦時遭難船舶は多いが、乗船名簿は不完全なままだ。第二次大戦で唯一、地上戦の舞台になった沖縄には、援護法が拡大適用されたが、その条件は「軍に協力した」だ。国から見舞金や恩給が出て、靖国神社に祀られる。対馬丸の学童の遺族には一時金が支給されたが、本土の軍需工場に徴用された徴用工の場合は、国との関係が希薄として何の補償もない。そうした犠牲者の方が多い。こうした事情から、遺族が名乗りを上げられないのだ。
遺族会の要望で97年、対馬丸の船体が発見されたが、引き上げは不可能とされた。その代わりに、全額国庫補助で対馬丸記念館が那覇市に開設された。真栄田さんは「記念館を見ても、学童たちがなぜ死なねばならなかったか、わからない」と言う。
海軍少年飛行兵に志願し、湖南丸に乗船して本土に試験を受けに行く途中の兄義一さんも、44年12月、米潜水艦の魚雷攻撃で死亡した。真栄田さんも加入する遺族会は、補償や遺骨の収拾を国に要望しているが、未だ実現していない。
沖縄戦跡を見て回ってショックを受けた真栄田さんは、「沖縄戦の実情を知ってもらわないかん」と、安仁屋教授と協力して85年、「沖縄の戦跡と軍事基地」を、95年には「平和のためのガイドブック 沖縄」を出版した。若者に読んでほしいと、カラー刷りにした。
出版と並行して、93年から「沖縄平和観光センター」(大正区)を設立し、平和ツアーを始めた。労組や団体を中心に、年間約100人を案内してきた。沖縄戦で犠牲になった女学生はひめゆりだけではない。白梅学徒隊を慰霊する「白梅の塔」は観光コースに入っているが、「かわいそうと思うだけ。女子学徒を死に追いやった実相を知らねば」。住民が遺骨を集めて摩文仁に建てた「魂魄の塔」には、3万5000体の遺骨が眠る。だが、観光ツアーは素通りしていく。「遺族会や戦友会が建てた慰霊碑をいくら拝んでも、魂がないんやから」と怒りすら覚える。
労組や教師ら先進的と思われてる人たちが、平和ツアーで「沖縄を知ってるつもりだったが、何もわかってなかった」と感想を寄せる。「沖縄は遊びに行く所じゃない」との意見もあるが、真栄田さんはそうは思わない。どんどん観光に行ってほしいのだ。「基地に依存しない沖縄の自立経済は、観光なしに成り立たない。遊びに来た人でも、戦跡を回ろうという気になる。沖縄を聖地みたいに描いてはダメ」
百聞は一見に如かず、と言うが、「百聞の上になお一見を」をモットーに、真栄田さんは平和ガイドを続ける。