SUITA市民しんぶんVol.4(2006)
大阪歴史博物館/特集展示 「あのころ、こんな子どもの本があった〜戦中・戦後の絵本から教科書まで〜」
正置さん(左)、岩根さん(右)
岩根 秋季号のゲストは、今夏「あのころ、こんな子どもの本があった〜戦中・戦後の絵本から教科書まで〜」という素晴らしい展示を主催された、聖和大学教授の正置友子さんです。大阪歴史博物館での特集展示、私も最終日に鑑賞させていただきました。
正置 それはありがとうございます。あの展示は2ヶ月以上も続けましたから、私は来館者の方々に説明して回っていたのですが、最終日にはどうしても行けず、失礼しました。展示室でお会いできなかったのは残念でした。
大阪歴史博物館特集展示リーフより
岩根 あの展示を観て、改めて「子どもの教育は大事なことだ」ということと、「教育が国の基礎を作るんだ」ということを感じました。例えば戦前のおもちゃ。日本が戦争に勝つために、おもちゃにさえ、子どもを戦争に動員するような仕掛けがされている。教育というのは、一つ間違えば恐ろしいことになるんですね。「愛国心を持て」「心の教育」などと言われだしている昨今、「あのころ」と似てきたような気がしたのです。
正置 私の問題意識もその辺りにありました。4年という歳月を費やして戦中と戦後の子どもの本を研究し、展示物を準備していったのですが、テーマは「検閲」でした。最初は戦後のアメリカ占領軍、GHQの検閲にしぼろうと考えていたのですが、検閲と言えば、戦中の日本軍による検閲が有名ですね。それで「戦中・戦後の子どもの本」という展示になりました。
岩根
アメリカ・メリーランド大学の「プランゲ文庫」からたくさんの子どもの本・絵本・雑誌が展示されていましたが。
「プランゲ文庫」紹介リーフより
正置 敗戦の年1945年から52年まで、子どもの本の世界では「空白の7年」と呼ばれていました。ところが、2001年頃に「プランゲ文庫」が里帰りし、この時期に出版されていたたくさんの本の展示を目の前にした時、びっくりしました。空白どころではない、出版されていたのです。それも大量に。着るものも食べる物もない、ましてや紙もインクもないと思われていた時代に、大人の本も子どもの本も驚くほど、出版されていました。GHQの日本占領期は、1945年から1952年ですが、この期間のうち、1945年から1949年まで、GHQは出版される全ての新聞や書籍などを検閲しました。当時GHQ戦史室に勤務していた歴史学の教授のゴードン・プランゲ博士が、これらの資料は日本の戦後第一次資料として非常に貴重になるだろうからと、メリーランド大学図書館に寄贈しました。これがプランゲ文庫といわれているもので、敗戦直後の日本の世相を反映しており、復興へと向かう時期を研究する上で欠かせない資料となっています。約11万点ありますが、その内の8千点が子ども関係の本や雑誌です。
岩根 戦中は「大東亜共栄圏を守るための正義の戦争」「鬼畜米英」と教えた教科書や絵本。こんどは逆に「軍国主義的な」本や雑誌が、GHQに検閲される…。
大阪歴史博物館特集展示リーフより@大阪府立国際児童文学館蔵CE個人蔵ABDFHIメリーランド大学図書館プランゲ文庫蔵G朝日新聞社蔵B川島はるよ画(フレーベル館刊)E安室二三雄画
正置 そうですね。今回の展示は、1940年代展ということもできます。1945年8月15日の敗戦を境に、前半が日本軍部の検閲、後半はGHQの検閲を、日本人は、子どもも含めて、連続して体験しました。40年〜45年までの絵本のタイトルは、例えば「ニッポンノコドモ」「敵の飛行機」「テキカンハッケン」などです。「ニッポンノコドモ」は帝国教育出版部から5万部発行されていて、「アイウエ、オクニノセンソウダ。ウミデ、リクデ、ソラデ(中略)ヘイタイサンアリガトウ」とあり、ハヒフヘホのところは靖国神社の鳥居が大きく描かれていて「ハヒフヘホマレニッポンノコ、オトウサマハツヨカッタ、オニイサマハエラカッタ、ワタシモマケズニホマレノコ」とあります。
岩根 お国のために戦って、靖国神社に祀られることが「誉れ」だよ、と教えている
正置 「お父様は強かった、お兄様は偉かった」と過去形になっているのは、父も兄もすでに亡くなり、靖国神社に祀られているのです。このころの多くの絵本では、「お母様方へ」というコーナーで、「立派な兵隊になるようにお育てください」という内容が書かれていました。「かんちゃん」という絵本では、小さな「かんちゃん」が、自分の背丈の倍ほどある大きな米兵を、背中から銃剣で一突きにしています。米兵は両手を上げて「参った」のポーズをし、銃剣を突き刺した「かんちゃん」はにっこり笑っています。絵本の中で「アメリカ人は殺せ」と教えているのですね。
岩根 絵本や教科書だけでなく、歌や民話なども利用されたようですね。
正置 有名なサルカニ合戦も書きかえられました。狡猾なサルは米英で、カニが日本。脇役の石臼や栗などはアジアの同胞です。つまりアジア人は協力してサル=米英をやっつけよう、という話です。「お母様方へ」というコーナーがあって、「自己の享楽のために、大東亜の諸民族をだまし非道な仕打ちをぬけぬけとやった、米英人は、猿蟹合戦の狡猾な猿と同視することができるでせう。もちろん敵米英を、此の猿と同じ運命に落とし込まなければなりません」。当時の絵本には「兵隊の志願先」まで載っているものもありました。
岩根 昔話まで利用して、子どもたちを戦争に駆り立てた日本が、45年8月15日を機に全く正反対のことを教え始めるのですね。
正置 8月15日から数週間後には、もう『ハロージープ』『ハローMP』という絵本が出版されました。また、戦中は教えることも使うことも禁じられていた英語ですが、戦後になった途端、ABCの絵本がたくさん出ます。巻末の「お母様方へ」には、「今後英語が盛んに普及されることと思われます。(中略)正しい英語の発音は到底振仮名であらはすことは出来ません。この点お母様方にはよくお含み下さいまして正しい発音をお教え下さらんことを希望します」。
岩根 それまでの戦争責任などは棚上げで、見事に手のひらを返したように豹変していますね。
正置 手のひらを返した、というより「権力に擦り寄って」います。いつの時代もその時々の権力に逆らわず、強いほうになびいてしまう。出版界、マスコミは「検閲されるなら、その前に自主規制して、出せるものを出そう」と。この傾向は現在まで続いているとおもいます。今のマスコミには、政府の責任を追及するような姿勢が見えない。自主規制しているのではと疑いたくなります。
京都市立高倉小学校に贈られた「青い目の人形」(同校HPより)
岩根 展示を拝見していて、そういった危機感をひしひしと感じました。9・11事件から5年、そして小泉内閣のこの5年間で、何か自由に物を言うことができないような窮屈さ。「あのころ」にどんどん近づいていって、また戦争に巻き込まれるのではないかという不安。こんな時に大事なのは、歴史を学ぶことですね。
正置 私たちもそう感じました。単なる展示だけに終わらせたくなかったのです。それで期間中に日米交流セミナーを開催しました。アメリカ側からと日本側から数名の講師に参加していただきました。アメリカからお招きした一人が、メリーランド大学教授のデニィ・ギューリック先生です。ギューリック先生の祖父は明治時代に牧師として来日していた人です。帰国後、アメリカで排日の動きが出たことで心を痛め、日米の平和のためには子どもたちの文化交流を図る必要があると考え、日本滞在中にみたおひな祭りの風習を思い出し、「青い目の人形」を日本へ贈る運動を始めます。1927年(昭和2)のことです。この運動はアメリカで大きく広がり、約1万3千体の人形が日本に贈られてきました。当時、人形は大人気となり全国の幼稚園・小学校に配られました。ところが時局はだんだんと戦時色が強まっていき、青い目の人形は「敵のスパイ」として、火にくべられ、足で踏みにじられました。現存している人形の数は、全国で約300体ほどです。大阪府下では約420体の人形のうち、現存が確認されているのはたったの5体です。
岩根 展示会場は8階でした。そのすぐ下の7階に、当時の人形が飾られていましたが、あれはその生き残った5体のうちの一つですね?
正置 そうです。あの人形は小学校の先生が学童疎開先まで連れて行き、そこで隠され、戦後はその人から姪御さんへ、そして甥御さんへと大事に伝えられました。青い目の人形はどれでも重い歴史を背負っていますが、歴史博物館の青い目の人形の特徴は、疎開したこと、着替えの衣類をたくさん持っていること、公の場である博物館に寄贈されたことが(他のほとんどは、幼稚園・小学校、あるいは個人で所蔵)、特徴だそうです。
私には今の卒業式や入学式での「日の丸・君が代強制」と、この人形を燃やさせた事件が重なるんです。教育の現場で、権力に無理やり従わせることが本当に教育なのか、と。
岩根 「日の丸・君が代問題」は、最初は政府も「起立して歌うか歌わないかは、本人の内心の問題だ」「強制はしない」という見解だったのが、いつの間にやら「歌わない、起立しない先生は処分」。同じように教育基本法も「改正」されようとしていて、盛んに今「心の教育」「愛国心」などと言われだしました。憲法の改正問題と合わせて、だんだん自由がなくなっていくのでは、と危惧しています。
「読書は『個を鍛える』。群ではなくて、孤独に耐えながら自分を確立していく行為」
正置 戦前は、「右向け右!」で、強制してみんなを同じ方向に向かせようとしました。逆らえば「非国民」です。つまりそこには「個人」というものがない。戦後それが変わったかといえば、残念ながらあまり変わらなかったのではないでしょうか。日本社会の中では常に「みんな」が重要であり、「個」は大事にされなかったのではないか。だから私はあえて「一人でいることの大事さ」「個の確立」を強調したいです。
岩根 正置さんはよく「個人として自立する」ためには、本を読むことが大事、だから図書館が大事だとおっしゃってますね
正置 そうです。本を読むということは、「個を鍛える」ということです。群れではなくて、孤独に耐えながら自分を確立していく行為です。教育は英語で「エデュケーション」と言います。エデュケート、つまり「引き出す」という言葉から来ています。子どもの力を引き出して育てる。そんな意味ですね。一方、日本語の「教える」は「押さえる」から来ています。教育は、「押さえつける」のではなく、引き出してほしい。つまり赤ちゃんから年寄りまでの住民の可能性を引き出して行くところであり、学びの場を保障するところが図書館であり行政であるべきです。
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「吹田市は、目の前のコスト意識、効率だけで判断。長いスパンで見ることが必要。」
岩根 吹田市は阪急山田駅前に、新しく図書館を建設する予定です。吹田市の図書館行政についてはどのように感じておられますか?
正置 これまでは素晴らしかったと思います。他市では民間企業に委託したり、司書がいなくて、アルバイトだったりするところも多いのですが、吹田市はきちんと司書を配置しています。今度できる山田駅前図書館も、専門の司書を配置し、市全体の図書館網に位置づけた図書館にしていただきたい。図書館はその地域の情報センターであり、いわば市民の頭脳を作る場所ですから、これまで通り直営でお願いしたいと思います。
岩根 予算がないからと、今、吹田市では事業の一律マイナスシーリングという方針があります。確かに財政は厳しい状況。でも住民にとって必要なサービスは削れませんね。不要不急な事業は見直し、凍結しても、「これは絶対に守りましょう」というメリハリをつけた行政が必要だと感じます。
図書館は地域の情報センター。直営を守ってほしい。(山田図書館)
正置 吹田市の「売り」は、保育園と図書館だったと思います。子育てに適していて、学習環境も整備された街だからこそ、「住みたい街」と言われてきたのだと思います。コスト意識だけで安易に民間委託すると、市民サービスの質が低下します。今度の山田駅前図書館にしても、いつか、できれば早い時期に建て直していただきたい中央図書館にしても、ぜひ、市直営をお願いしたい。
岩根 そうですね、財政的には大変な時期ですが、吹田のまちの現在と将来を見通して公的な責任を果たしていかなくてはならない。今の吹田市行政は目の前のコスト意識だけ、効率だけで判断しているのでは、と危惧しています。おっしゃったように長いスパンで見ることが必要で、例えば、吹田操車場跡地の開発などは、まさに20年、30年先を見越した街づくりが必要です。民間に丸投げするのではなく、住民が参加する中で、どんな街を形成していくのか。
正置 私は千里ニュータウンの団地に住んでいますが、5階の窓を開けると箕面の緑の山並みが飛び込んできて、「きれいだなー。ここに住んでいてよかったなー」って感じます。それはニュータウンを作ったとき、民間業者に任せるのではなく、大阪府が都市計画をして、あまり高いビルを建てず、公園や幅広い道路を確保したからですね。今、吹田市ではあちこちに高いビルが建っているように感じるのですが…。
岩根 もともと開発を規制する指導要綱というのがあって、吹田市は開発に対して厳しかったのですが、国が“行き過ぎ”と要綱の見直しを強制してきたのです。それで山田や千里丘など、吹田市の各地で緑が削られ、大規模高層マンションの建設が相次ぎました。これは、住民参加のまちづくりや開発抑制型のシステムが十分でない中、社宅の売却や公営住宅の建替えなどが一方的に進んだからです。図書館や保育所のあり方や開発に対する考え方など、いずれも吹田市の責任、役割が問われています。今日は平和の話から教育、そして図書館行政まで、貴重なご意見をいただきました。どうもありがとうございました。
本対談は2006年9月14日に行いました。