吹田市豊津町にお住まいの榎原津一郎さんは、現在97歳。戦後61年たった今もお元気で当時の様子を語ってくれます。(戦前の暗黒時代と比べて)「今の方が性質(たち)が悪い」「生臭い戦争のにおいがする」とおっしゃる榎原さん。人殺しに協力させられた戦争体験を語っていただいた後、「いくさに勝ち負けはない。現場ではどちらも死ぬ。(戦争を)やったら負けや」との言葉が印象的でした。
Q.召集されたのはいつ頃ですか?
▲当時の仕事(赤紙配布) について語る榎原さん
▲軍歴が記載された軍隊手帳と戦陣訓
榎原昭和14年です。それまでの昭和5〜6年は軍人で、その後8年間「豊津村」で役場職員でした。昭和16年豊津村が吹田市に合併して吹田市になりました。私は陸軍の「留守隊」で人事担当になり、中国・韓国などの戦況に合わせて、新人を軍事教練し、戦えるようにしてから戦地へ送り出す仕事をしていました。私は軍人でありながら「吹田市役所兵事課兵事係長」になるのです。
Q.兵事係は何をしますか?
榎原召集令状、つまり赤紙を配る部署の責任者です。赤紙が届くと、いち早く吹田に住む在郷軍人の元へ届ける段取りして、吏員に配達させるという仕事です。
陸軍から「お茶の会です」と電話が入る。これは暗号で、「これから召集令状を持っていく」という意味です。知らない他課の人間からは、「兵事係はのんきやなー。こんなご時世に」と言われました。
Q.電話が入ればどうしますか?
榎原自転車に乗って阪急の相川駅へ。いつもの待ち合わせ場所に立っていると、陸軍の担当者が来て、封筒を手渡され、急いで役場へ帰ります。それから赤紙を届けに行く。ここで大事なのは、普段から在郷軍人がどこにいるかを把握しておかねばならないのです。赤紙を受け取ってから2時間以内に配達しないと、軍から遅いと言われます。遠いところにいる人には電報を打ちます。中には刑務所にいる人もいます。いつ陸軍から赤紙が届くかは分かりません。召集には「充員召集」と「臨時召集」があって、ほとんど全て「臨時召集」でした。「充員召集」というのは、あらかじめ「この人とあの人」と決まっていて、期日が来れば召集する方法。しかし戦時中はそんな余裕もなく、「臨時召集」ばかり。したがって「お茶の会です」という電話が入るのは不定期でした。
Q.戦死者のためのお葬式をする
のも仕事だったとか?
榎原公葬といいましてね。遺骨がどんどん帰ってくるから、大体10人くらいたまれば、吹田第一小学校の講堂で、葬式を挙げました。私はその都度、市長の弔辞と在郷軍人連合会長の弔辞の原稿を書きました。原稿を書いて起案し、助役、市長と見てもらいます。市長も自分が読む原稿なので、「ここはこうしようか、ちょっと表現を変えようか」などと市長室で相談しました。
Q.弔事の内容は?
榎原戦死者の功績を褒め称えて、最後に「戦場で骨をうずめ、血を流し、お国のためになくなったのは痛恨の極み。もって冥(めい)せられよ」といった感じですね。
Q.戦後はどう過ごされました?
榎原兵事課が援護課に変わりました。それまで戦争に行く若者を送り出していた仕事が、戦争で傷ついた人を助ける課に変わったのです。軍隊が、トラック一杯に積んだ軍服や靴、乾パンなどを運んできます。馬をもらってきた人もいましたなぁ。これら援助物資が一杯になって、置く所がなくなってしまい、西尾邸(旧仙洞御料庄屋屋敷)の蔵に入れたり、市長室に詰め込んだり…。
Q.日本はイラク戦争に巻き込まれたり、
北朝鮮問題もあって、「危ない時代」と思われませんか?
榎原戦前の日本と今の北朝鮮は似ているね。それと靖国神社参拝問題。なんで総理大臣が行くのかねぇ。中国や韓国の人たちは、今でも「日本はけんかが好きや」と思っているよ。当時は国民も「最後は神風が吹く」と大本営発表にだまされていた。沖縄では23万人も死んだんでしょう?ブッシュ大統領も安倍総理も、戦前と同じようなことを繰り返そうとしているのでは?先の戦争を「良かった」という人は一人もいませんよ。いくさは二度としてはダメ。戦争に勝ち負けはないんですよ。