吹田市民の戦争史(2)
小原 吉男さん
(金田町在住)
吹田市金田町にお住まいの小原吉男さん(83歳)は、昭和18年に召集され、中国南部で終戦を迎え捕虜となった経験を持つ。20歳から衛生兵として従軍し、いくつもの「生死の境目」をくぐり抜けて来られた小原さん。「私の青春は全て戦争に奪われてしまいました。戦争だけは絶対にやったらあきません」。老いてなお、戦時中の強烈な記憶を語ることは、つらいこと。60年の歳月を経ても、まだ癒えることのない戦争の断片を語っていただいた。
戦争は絶対にやったらあきまへん
喜ぶのは軍需工場だけですよ
Q.昭和18年12月に召集され、南方へ。中国大陸に向かったのですか?
広島の宇品港から船が出ました。夜中に出港、朝甲板から外を見ると、なんと48隻もの船が、駆逐艦と戦闘機に守られながら4列縦隊で南へ進んでいる。沖縄の近海で、最後尾の船がアメリカの潜水艦に撃沈されました。台湾近海でまたもや最後尾の船がやられましたが、私の船は無事だったので台湾の高雄に到着しました。
Q.台湾で衛生兵に?
いえ、配属されたのは香港の陸軍病院でした。当時は沖縄戦の直前で、香港の飛行場を中心に連日のように激しい空爆。ひどい時は空襲は24時間も続き、私の仕事は、大量に運び込まれてくるけが人を病院へ収容し、亡くなった人を焼く。この繰り返しでした。
Q.戦争犠牲者を手当てされていたわけですが、重傷者も多かったのでしょう?
いわゆる「ダルマ」患者がいました。手足4本とも吹き飛ばされ、胴体だけになっている。それでも息があるんです。「かめ」に入れて内地の病院へ送りました。「かめ」に入れないと、安定しないので、船の中で転がってしまうからです。その方は20歳前後の青年でした。おそらく「いっそ殺してくれ」と思っていたでしょうね。
Q.香港で終戦を迎えるのですか?
香港の病院が患者で一杯になったので、黄浦という所で終戦を迎えました。
Q.その後「捕虜収容所」へ?
そうです。一番怖かったのは朝です。アメリカの捕虜や中国人たちが私たちの顔を見て「こいつに殴られた」「この人に暴行を受けた」と証言していく。名指しされた「B、C級戦犯」は、軍事裁判にかけられ、最悪の場合絞首刑です。
Q.収容所にはどれくらいおられましたか?
1年間いました。衛生兵の経験があるので、収容所の中に療養所が出来て、私は病人の看護をしてましたから、引き揚げは一番最後になりました。
捕虜になる直前「証拠品は全部燃やせ」との指示で、軍人手帳や戦友たちと撮影した写真などは全て燃やしてしまった小原さん。「惜しいことしたな。今では戦友たちもたくさん亡くなってしまって、写真あれば思い出すこともあるのにな」と残念そうに語る。戦争は青春も思い出も奪ってしまうものなのだ。