大学へ行ってた分だけ、兵隊になるのが遅くて、23歳で軍隊へ。新兵の研修が厳しかった。よく殴られたねぇ。殴られた翌日は噛めないくらい顔が腫れてね、まぁそれが軍隊ですね。5年制の旧制中学を出たものは試験を受ける権利があって、研修を終えてから幹部候補生の試験を受けると、見事に合格。その後出征命令が出て中国へ。
行く先は全く告げられずに坂出港を出発し、着いた先が天津ですよ。万里の長城の入り口から上陸し、北京のそばの天津に「北支軍駐屯地」があったので、そこに配属されました。
日本軍が占領しているわけです。そこへ革命軍が攻めてくる。国民党の軍隊もいるわけですが、その時は一緒に攻めてくる(国共合作)ことはあまりなかった。
川を挟んで撃ち合う時でも、ビクビクしていたら逆に狙撃兵に狙われて殺されてしまう。弾が飛んできたら一番最初に飛び出して機敏に動けば、それほど当たらないのです。銃の性能は日本の方が優れていますが、相手はチェコ製の機関銃で応戦する。
戦争はテレビゲームのようなものではないですよ。腸が飛び出ている死体も見ました。夏は遺体の腐り方が激しく、ウジがわいている死体なども。相手の遺体から鉄砲を奪って、それで闘ったこともありました。しかしその鉄砲、なんと日本製。つまり日本兵を殺して中国側へ奪われた鉄砲が、また日本側へ戻ってきたのですね。
配属されて4年ほどいました。よく殺されなかったと思います。しかし昭和16年に太平洋戦争が始まって、北支軍は南方へ転戦を命じられたのです。もしあの時、フィリピンやビルマなどに送られていたら、おそらく私は戦死していたでしょう。しかし、たまたま編成替えがあって、私はモンゴル方面へ転属を命じられたのです。
私もそれまでは不思議と死ぬことは怖くなかった。しかしモンゴル方面への配置転換で、「これはもしかしたら生き残れる運命かも」と感じました。
当時軍隊では「未来の軍人を増やすため」に、結婚を奨励していました。部隊で結婚希望者を募集したのです。希望者には1ヶ月の休暇を与えられるし、死ぬまでに一度親に会いたいと思って、嫁さんには失礼ながら(笑)、結婚を希望したんです。
いつ死ぬか分からん身で、「軽率に結婚したらあかん」とは思ったけれど、生き残る方に「運が向いてきたかな」とも思っていた時期なので、見合いしました。何しろ休暇が1ヶ月しかないので、すぐに結婚を決めて和歌山へ新婚旅行に行き、やがて下関からプサン行きの船に乗り込んで、妻と別れ別れに。当時私は27歳、妻は22歳ですよ。
それまでは「お国のために」と死ぬのは怖くなかったですが、結婚してからは「嫁さんもらったんやから生きて帰らないと」と思うようになりました。妻は私が帰ってくるまでの3年間、毎日ずっと佐井寺のいざなぎ神社にお参りしていたんですよ。いざなぎ神社のご利益なのか、科学では証明できないものが働いて、私は死なずにすんだのだと思っています。
戦争はいつの時代も悲惨なもの。「命の大切さは、戦争した人にしか分からんでしょうね」。仲むつまじく写真に納まっていただいた、森さん夫妻の言葉が重い。