萩原私は昭和8年に姫路で生まれましたから、12歳で終戦を迎えます。昭和20年4月に旧制の鷺城(さぎしろ)中学校に入学するんです。姫路城の中に学校があって、姫路城は別名「白鷺城」と呼ばれていましたから、鷺城中学校という名前だったんですね。体育で「今日は天守閣まで登って降りて来い」といった一風変わった授業を受けていました。授業といっても毎日軍事教練ですね。敵に勝つために柔道や剣道を退役軍人が指導するのですが、常に「コラーッ!」と怒鳴りつけるので怖かったですね。その頃から姫路にもB29が編隊を組んで飛来してきました。いよいよ本土決戦だな、と感じていましたね。
萩原一回目は昭和20年6月22日です。家の近所に「川西航空機製作所」があって、そこが狙われました。その日は晴れていて、上空からパラパラとゴマをふりかけるように爆弾が落ちてきました。爆弾は見る見る大きくなり、ザーという轟音になって3〜4キロ先に落ちていきました。目と耳をふさがないと、爆風で鼓膜が破れるほどでした。工場付近は全滅。家の裏にお寺があって、そこに真っ黒焦げの死体、頭のない死体が担架で運び込まれてきました。焼かれて熱かったんでしょう、川に飛び込んで浮いている死体もありました。
萩原あれは7月3日の夜でした。空襲警報が鳴って、いつものように家族3人で防空壕に入っていきました。叔父は2階の物干しから外を見ていて「姫路駅がやられているぞ」「危ない!」と叫び、別の壕に入りました。その時、ドーン、ドドーン!と地響きが轟いて13発もの爆弾が落ちてきたのです。12歳の私は身軽だったので、何事かと、壕を飛び出して外へ出ました。あたりは火の海。
壕の中から祖母が、「昭夫!危ないから壕に帰ってきなさい!」と悲痛な声で呼んでいました。これが私の耳にした祖母の最後の声です。当時軍は「壕に入れば安全」と根拠のない指導をしていましたから、祖母はその指導に従ったのです。ものすごい暑さの中、火の海を潜り抜けて田んぼに出ました。夜空に多数の焼夷弾が空中で炸裂し、子爆弾が花火のように飛び散っていく様を、「きれいだな」と眺めていました。
夜が明けて、家に帰ると一面の焼け野原。このあたりに家があったであろうという場所で、祖母を探しました。後で「これは遺骨ではないか」というものを拾い上げて、この骨は祖母で、これは手伝いの叔母さんだろう、ということにしました。
萩原母親の実家に帰り、友達と田んぼで遊んでいたら南の空からカラスの大群のようなグラマンの編隊がやって来たのです。その内の一機が黒鉛を上げて急降下してくる。私たちは日本軍の対空砲火がグラマンに命中したと勘違いして、「ウワーッ!」と喜んで落ちてくるグラマンに近づいていったのです。その時バリバリバリッ!と銃声がして、そのグラマンが私と友人たちを撃ってきたのです。私はとっさに用水路に身を投げて助かりましたが、友人2名が殺されました。
今から思えばあのグラマンは遊び半分で子どもを狙ったのでしょう。
萩原2回目の空襲で、私は外へ逃げて助かりました。今でも、なぜあの時防空壕へ戻って祖母を助け出してあげられなかったかと、後悔しています。と同時に、あの時助けに行ったら、私も焼き殺されていたかもしれない、とも考えるんです。祖母は「私だけでも助かって!」と願っていたのでしょう。私はそう思うことにしています。そうしないと、心が平静を保てないからです。
姫路空襲の死者は514人、罹災者は55402人で、これは当時の市人口の51%です。戦争は普通の市民を殺すものなのです。