ニューヨークまで行かれた動機は?
司会本日は、今年5月にアメリカのニューヨークで開催されたNPT再検討会議(注1)に参加された方々に集まっていただきました。まずはじめに、何でわざわざ(笑)ニューヨークまで行こうと思ったのか、その動機について聞きたいのですが。
積極的に平和運動に関わることが必要
熊谷 一会さん
熊谷NPT再検討会議が開かれることを知ったのは、昨年広島で開催された原水爆禁止大会に参加したからです。そこで「来年はニューヨークで核兵器廃絶のための会議があるよ」と。
もともと戦争と平和に関して興味があったので、ベトナム戦争の跡地を巡ったり、戦前日本の731部隊が生体実験を繰り返してきた中国のハルピン近郊を旅したりしていたんです。
「まずは知ることが大事」と、戦争の負の遺産を見てきましたが、見るだけではダメ。積極的に平和運動に関わることが必要だろうと思いましたので、職場の方々に背中を押してもらい、ニューヨークに行くことにしたのです。
大阪で母親大会に関わってもう一度勇気をもらおうと
樋口私はずっと大阪で母親大会(注2)に関わってきました。
初めて母親大会に参加したのは、私が24歳のときで第10回目の日本母親大会(東京)でした。
樋口 基子さん
ビキニ水爆実験で死の灰を浴びた第5福竜丸の久保山愛吉さん、その未亡人であるすずさんが舞台で「原水爆の被害者はこれで最後にして」という訴えが胸に響きました。
実はこの時、私の命はあまり長くないと宣告されていたのです。結核でした。だから生命の問題には敏感で、核戦争から子どもを守る、核兵器は絶対に許してはならない、という平和運動に自然と入り込んでいきました。
その後吹田で40数年間、この母親運動に関わって、生きる力をもらってきました。NPT再検討会議がニューヨークで開かれると聞き、平和運動で勇気をもらい続けてきた私の人生だから、もう一度エネルギーをもらいに行こう、と思ったのです。
母から高校3年の時「ニューヨークに行かへん?」
福井 早苗さん
福井早苗母から「ニューヨークに行かへん?」と誘われたのは、まだ高校3年生で、受験中でした。大学では社会学部に進んで世の中の現実に起こっている問題を学ぼうと思っていたので、良い機会かな、と感じました。吹田の山田高校の出身ですが、憲法の学習やイラク戦争など、社会の先生からいろいろと教わっていたので、基礎知識はあったのかな?
高校で「ニューヨークに行くねん。核兵器廃絶の署名して」と言うと、同級生も協力してくれました。
新婦人吹田支部の代表で核兵器廃絶で5千筆
福井 依智子さん
福井依智子NPT再検討会議は5年ごとに行われるでしょう。ですから05年、00年に参加された方の報告などを聞いていて、私も参加したいな、と思っていたのです。オバマ大統領がプラハで核兵器廃絶を訴える演説もあったので、今がチャンスなのではないか、と。今年は歴史的な大会になるかもしれないと思ったら、「その瞬間、現場にいたい」じゃないですか。新日本婦人の会吹田支部の代表として現地へ行くことになったので、署名集めをがんばりました。駅前はもちろん、吹田高校の正門前でも、核兵器廃絶を訴えて、5千筆も集めましたよ。
祖母が被爆者、「生きている者が平和運動をがんばらんなん」
面屋吹田で学童保育の指導員をやっています。職場の先輩から「ニューヨークへ行かへんか」と誘われました。「飛行機落ちたらどうしよう」「テロが起こればどうなるかな」と、正直怖かったんです。
面屋 敦子さん
だから「いつ断ろうかな?」(笑)と考えてました。悩んでいると、両親が「行ったらええやん」と背中を押してくれました。
実は私の親は二人とも広島出身で、祖母が被爆者なのです。だから小さい頃からどちらの祖母の家へ行っても、原爆の話を聞いて育ちました。私もベトナムへ行ったことがあるのですが、ツーズー病院を訪問した時、ホルマリン漬けになっている赤ちゃんの生まれた年が、私と同じなのにショックを受けました。枯れ葉剤の被害ですね。広島の被爆者もお亡くなりになった方が多く、「生きている者が平和運動をがんばらなアカンなー」と感じていたので、ちょっと怖かったけど、ニューヨークに行くことにしました。
平和への思いを胸に、ニューヨークでは、どのようなことを
司会それぞれ平和への思いを胸にはるばるニューヨークまで行かれたわけですが、現地ではどのようなことをされたのですか?
みんな結構協力的で気軽にOK、OKと
福井依智子着いたのが夜だったので翌朝、セントラルパークへ。早速公園で核兵器廃絶の署名集めをしました。英語の横断幕を掲げて、折り鶴やステッカーなどを持って。
英語しゃべれないので、「これは核兵器をなくす署名です。ご協力を」と英語で書いたポスターを指差して訴えました。署名してくれた人にはお礼に折り鶴を渡すのですが、一人が「ジャパニーズ、ピースバード」(日本の平和の鳥)とカタコトで。その横でもう一人がパタパタと鳥が羽ばたくまねをして(笑)。
福井早苗みんな結構協力的でした。気軽にOK、OKと。折り鶴は喜んでくれました。
福井依智子本当はもっと英語がしゃべれたら、「核兵器廃絶のためには何をするべきか」「アメリカが大量の核を持っていることをどう思うのか」など、アメリカ人がどう考えているか、議論したかったのです。ピースバードだけでは(笑)残念でしたね。
「いのちのスローガン」の英訳で握手を求められ
面屋「アイアグリー(賛成します)」と言ってくれた人がいましたが、署名はしてくれません。何で?と思ったのでしつこく迫りましたが、英語が話せず、わかりませんでした。私たちが宗教関係の人間だと思った人もいて、ビラをくれた人もいました。アメリカは宗教関係者が多いのを実感しました。
署名の内容には同意してくれても、アメリカは移民国家なので「私、アメリカ人じゃないから署名できません」と断られることも。「いいんです。国籍は関係なく署名できます」と言いたかったのですが、英語が出てこない。後で熊谷さんが「ノープロブレム」って言えばいいんと違う?とアドバイスしてくれて、それからは「ノープロブレム」を連発してました(笑)。
樋口署名を書きかけた人が、私の顔を見て「日本人か?」と聞くので「そうです」と答えると、「やめた」と署名してくれません。何で?と問うと「パールハーバーを思い出した」と。
真珠湾攻撃があったから戦争になり、その戦争を終わらせるためには広島・長崎は仕方がなかった、と教えられているアメリカ人も多いんですね。
しかし核兵器は人類を何回も死滅させるのですから、互いの責任を追及する前に、核は廃絶すべきであることをもっと訴えたかったですね。
それで母親大会で採択された「いのちのスローガン」を英訳したものを持って行ったんです。読んでくれた人からは握手を求められて、涙が出そうになりました。ニューヨーク市民の青い目がとても印象的でした。
平和パレードに参加し観光バスの2階から手を振って
「平和の鯉のぼり」で道行く人にアピール
熊谷平和パレードにも参加しました。世界から集まった1万5千人の大パレードですが、意外と日本人が多かったのです。普段から「日本人は世界の動きについて意識が低い」「日本人は外へ出て表現するのが苦手」ときいて感じていたので、「なかなか日本の意識もすごいやん」と感心しました。歩いている時、他国の人と交流し、歌を歌ったりギターや着ぐるみを着た人などもいて、炎天下の中でしたが、観光バスの2階から手を振ってくれる人や、ピースサインをして「私たちも平和を願っているよ」と笑顔をくれる人もいてパワーをもらえたパレードでした。
福井依智子パレードの終着地が国連前の広場でした。パレードが解散しても、被爆者の方々が原爆パネル展をされていたり、マイクを持って訴えていたりして広場は熱気に包まれていました。
被爆者の体験を熱心に聞いていたアメリカの若者が、「第2次世界大戦を終わらせるために、原爆投下は仕方がなかった、と教わってきた。しかし被爆者の話を聞いたり写真を見たりして、考えが変わった」と感想を述べていました。
「沖縄、普天間基地ノー」マスコミもカメラで撮影
樋口私はニューヨークの後、ワシントンに行きました。ニューヨークは高層ビルが林立した大都会でしたが、ワシントンは青々とした緑が広がる空間に、ホワイトハウスやアメリカ議会、ペンタゴンやアーリントン墓地などがある政治の街でした。スミソニアン博物館に「エノラゲイ」(広島に原爆を落とした飛行機)が展示されているので、その見学に行くべきか、それともホワイトハウスに行くべきか、迷いましたが、アンライトさん(元陸軍大佐・外交官)のすすめでホワイトハウスを選びました。
ホワイトハウス前に小さなビニールシートでできた小屋があって、そこにピシオットさんという女性が座り込んでいます。彼女はスペインからやってきて、ここにもう30年以上も座り込んでいるのです。アメリカが核を廃絶するまで、ここで座り込むという平和運動を続けておられるのです。
私たちはピシオットさんを励まし、そしてホワイトハウス前で横断幕を掲げて並びました。もちろん原爆反対と訴えましたが、今年はそれに加えて「沖縄、普天間基地ノー」と、普天間基地のポスターを掲げて叫び、そして歌いました。
道行く人から注目を浴び、マスコミはカメラで撮影してくれました。
その日の晩、教会でアメリカの草の根平和運動家たちとの交流会がありました。
交流会の最後、全員が私たちに向かって起立し、そして深々とお辞儀しました。
「アメリカの罪を謝らせてほしい」と。原爆投下の罪ですね。あの人たちは宗教家でしたが、スミソニアン博物館にエノラゲイを展示することに最後まで反対してきた人たちでした。草の根の運動は世界を確かに動かす!と確信を持ちました。
ホワイトハウス前で核兵器廃絶をアピールするNPT再検討会議参加者たち
参加できたのをきっかけに日本で平和サークルを
福井依智子1万5千人もの人々が世界からやってきて、ニューヨークで大パレードをしたわけですから、翌日のアメリカの新聞には、そのことがでかでかと掲載されるだろうと期待してました。でもニューヨークタムズやワシントンポストなど大新聞は、全く無視。ちょうどその前日にあった、自動車爆破事件を「テロだテロだ」と大騒ぎしてました。沖縄の集会などをほとんど報道せずに、芸能人の麻薬や離婚ばかり報道する日本と似ているな、と感じました。
面屋私の着ているTシャツは、アメリカの若者たちが作ったんです。5年前のNPT再検討会議に参加して、核兵器をなくそうと5年間も活動を続けてきたグループです。私もこの会議に参加できたのをきっかけにして、日本で平和サークルを作って行こうと思っています。
司会私たち一人一人ができることは小さいかもしれませんが、みんなが集まれば大きな運動になりますね。唯一の被爆国として、本来なら日本が核兵器廃絶の先頭に立たないといけません。ニューヨークで学ばれたことを、ぜひこの吹田で生かして平和運動を大いに盛り上げてください。本日はありがとうございました。
(注1)NPT再検討会議とは
NPT(核不拡散条約)は1968年に調印され、70年に発効。67年までに核兵器を製造・爆発させた5カ国(米国、ソ連、英国、フランス、中国)を「核兵器国」と規定して核保有を容認した条約です。
NPTは190カ国が加盟。北朝鮮は核実験をし、NPT脱退を表明(03年)しています。非加盟のイスラエル、インド、パキスタンが事実上の核保有国となっています。
(注2)母親大会とは
日本母親大会連絡会は「生命を生みだす母親は、生命を育て、生命を守ることをのぞみます」をスローガンに母親・女性の願いをたばねて草の根の運動を展開。母親運動は54年アメリカのビキニ水爆実験に反対し、平和を求める世論の中から生まれました。第1回母親大会は、平塚らいてうらの呼びかけで1955年に開かれ、今年で56回目を迎えます。各都道府県から地域別市町村別の集会までふくめると、毎年春から秋にかけての「母親」の集いはおびただしい数にのぼります。