問題点だらけの「教育基本条例」(案)
対談
大阪大学人間科学部教授 小野田 正利さん
吹田市職員労働組合執行委員長 丹羽野 和夫さん
丹羽野 今日は大阪大学人間科学部教授の小野田正利さんをゲストにお迎えしました。小野田先生は、吹田市の社会教育委員会の議長でもあり、普段からお力をいただいています。実は今、私たちはお互いに「いてもたってもいられない危機感」に襲われています。それは橋下知事と維新の会が提案している「教育基本条例」と「職員基本条例」。これが通ってしまうと、学校現場や自治体職場は崩壊してしまうと言われています。私は橋下知事の暴走が府民に明らかになったな、と思うのですが、特に「教育基本条例」(案)の問題点について、分かりやすく解説願いたいのですが。
小野田 まず簡単に結論だけを申しますと、「保護者がこれほど関心のない条例なのに、いったん通ったら、これほど取り返しのつかない事態を招く条例はないよ」ということ。この条例の危険性をもっともっと広く訴えていかねばならない。それで先日、阪大の教授6名を含む有志一同で「取り返しのつかないことが起きる前に——大阪・教育基本条例案への意見表明」を出して、記者会見しました。
丹羽野 「しゃにむな競争に追い立てられ、失敗や間違いをすることがほとんど許されない状況が作られれば、エリート形成も歪みます。(中略)追いつめるだけ追いつめ、結果責任を求めているからです。条例案が明らかになって以後、多くの優れた先生の卵たちが、大阪に教員として就職することを躊躇しています。教える喜びや子どもと触れ合う楽しさが、大幅に奪われていくからです…。」この声明で指摘されていることが、近未来に起こってしまうと大阪の教育現場は崩壊してしまいますね。声明の中に「保護者は、部活動指導への強制参加を求められ、追いつめられていく」とありますが?
小野田 学校の教員は学力向上に専念させることが必要であり、今までのような部活動指導なんてやっている場合ではない、というのです。しかし例えば高校ではインターハイ出場を目指して日々努力しているし、文科系のクラブも様々な全国大会があります。いきなり部活動の水準を下げれば、多方面から批判されてしまいます。そこで「保護者を徹底的に使おう」という発想です。でもそんなことできますか?知事や維新の会は「それが親としての当然の務めである」「それをしないのはけしからん」という立場。しかし実際には親も仕事をしているし、毎夕、土日の部活動指導をボランティアでできるはずがないでしょう?
丹羽野 私の息子は少年野球をしていましたが、「ノックができる親」は少ないのです。リトルリーグでは運営に協力できない親の子どもはチームに入れてもらえないこともあります。まして高校となるとクラブも多種にわたり、技術も高くなる。親で指導できる人はほとんどいないでしょう。
小野田 だからお金でコーチを雇うことになってしまう。例えばサッカー部。平日2時間、土日に8時間練習するとして週26時間。つまり毎月100時間以上指導してくれるインストラクターが必要になります。時給2千円とすれば毎月20万円もの負担が、あらたに保護者にのしかかってくる。お金を融通できない高校は、保護者の「勤労奉仕」ですよ。これは保護者を分断します。「あの親は部活動に協力的じゃないわね」。これではPTA活動が難しくなります。事故の起きる確率は高くなるし、その賠償問題や保護者もケガをすることが心配です。この条例によって大阪府民全体が縛られてしまうのです。
ここが大問題!
1.校長はすべて民間から公募で任期つき
2.3年連続定員割れの高校は統廃合
3.先生にS、A、B、C、Dの5段階評価。 2年連続Dの先生は分限処分
4.同一命令に3回違反すると免職も
5.保護者に部活動指導を義務付け
丹羽野 クラブ活動は親まかせ、競争に打ち勝て!という条例ですから、落ちこぼれた子どもは、ますます学校が嫌いになっていくでしょうね。
小野田 ストレスを抱えた子どもたちが、家庭で親に当たり散らすかもしれない。すると親は学校に不満を抱きクレームが急増するでしょう。学校はクレーム対応に追われ、余計な仕事が急増する。つまりウインウイン(3方得)ではなく、ルーズルーズ(3方損)の関係になるのです。
それを予想しているのか、親のクレームについてこの条例案は「心配ご無用」と言っている。「保護者は教育委員会、学校、校長、副校長、教員および職員に対し、社会通念上、不当な態様で要求等をしてはならない」(10条2項)。橋下知事の「競争だ!」というかけ声のもと、学校が無茶なことをしても親は文句を言えないのです。
丹羽野 文句を言う親はモンスターペアレントだと。例えば、「文化祭は受験のためにならないので中止」と決められたとします。当然親は「文化祭は必要でしょう」と訴えるでしょう。でもこんな要望も3回続ければ、「不当な態様」となって、モンスタペアレントになってしまう…。
小野田 それが嫌なら「(大阪から)出ていってください」(かつての橋下知事発言)ということですよ。この条例のずるいところは、「知事が責任を取らない」ところです。知事は教育目標を決めるだけ。その目標に向かって競争させる学校が「知事の代理人」となって、結果責任だけを負わされる。不登校になる子どもが急増しても、PTAが空中分解しても、部活動の指導中に大きな事故があっても、「知事の目標は間違っていない。やり方がまずかっただけ」と、常に学校と保護者側が悪者になるのです。橋下知事が韓国やシンガポールの進学校を視察に行った時、「この学校の教育はすごい」「エリートが育っている」としきりに感心していたそうです。視察に同行した教育関係者は、「このエリートたちの影で、何人の子どもたちが落ちこぼれていっただろうか?」と感じた。つまり同じ進学校を見ても、見えている風景が違うのですね。
丹羽野 「校長先生を全て民間から公募して任期付で任命する」という点も常識では考えられないのですが…。
小野田 学校の管理職なんて片手間でできる、教育上の識見があろうがなかろうが、ともかくマネジメント能力がある者を優先的に配置する、という趣旨です。見逃せないのは、「勤務時間内にあっても一定の条件が認められれば、教育公務員は別に給与を受けることが可能」という条項を、「弾力的に運用する」と強調しているのです。つまり今回の条例で、高校の校長に任命される人々は、コンサルタント業、企業の管理職などが多いと考えられます。そんな人たちが応募しやすいように、副業としての仕事を続けてもらって結構です、ということでしょう。
つまりいつでも辞めて副業に専念でき、任期がついている人に強大な人事管理権が与えられるのです。
丹羽野 問題の多い教員の評価システムを、民間出身の、教育現場をあまり知らず、三〜五年しかいない校長が行うのですね。S、A、B、C、Dの5段階に分けて、2年連続Dを取った教師はクビも視野に入れた分限処分。それも相対評価なので、校長は毎年5%の教師にDをつけなければなりません。
小野田 公立学校に市場原理を導入するのですよ。でも本当にそれでいいのか?モノを作る工場や企業と、子どもの成育を助ける教育現場とを、同じように扱っていいのか?この条例では、学校の教師たちは「(株)橋下商会の代理店(校長)の、従業員か召使い」のような関係になってしまうのです。当然教師はD評価を喰らわないように、積極的には動かなくなる。成功すればS、失敗すればDなら、動かないでBを目指しますよ。
丹羽野 いろんな先生がいるから、学校が楽しいのであって、いろんな先生が文化祭や体育祭をはじめ、「ちょっとした冒険」をしてくれるから、子どもも育っていくのではないでしょうか?
小野田 校長にごまをすって接待する教師が増えるでしょう。 逆に内部ではチクリ合戦が起こるのではないですか?誰かをDに落とさないと自分がDになるかもしれない。かくして教師は人間不信に陥り、職場は荒んでいくでしょう。
丹羽野 子どもたちに、人を信用することが大事なんだよ、人を裏切ったらいけないよ、と教えるべき教師が人間不信になってしまえば、人権教育やいじめ防止の教育など、「人の命を大事にする」教育などできなくなってしまいますね。
小野田 逆に校長は「好き嫌い」で教師をクビにすることができます。「あいつ職員会議で俺に歯向かったな」「あの顔見てるだけでムシャクシャする」。失職が恐ろしいので、面従腹背の教師が増えていく。
丹羽野 訴訟が増えるでしょうね。「何で俺がDやねん!」と。大阪が異常に裁判の多い都道府県になりそうです。
小野田 現行の評価システムは絶対評価なので、Dがつく教師は全体の1%以下。それでも評価に納得しない教師によって、訴訟が続出しました。今回の条例案が通れば、訴訟だらけですよ。相対評価で5%は無理矢理Dにしなければいけないのですから。でも子どもたちの健やかな成長を保障する教育現場こそ、ゆとりが必要なのです。
ただでさえ、今の日本社会は格差が広がり、ギスギスしています。労働者派遣法の改悪で、簡単にクビを切られ失業するようになり、企業は「国際競争に勝ち抜くため」という口実で賃上げをしなくなった。結果、国民の間に「誰にぶつけて良いか分からない不満」が充満した。 それで人々はイライラをぶつけやすいところ、言いやすいところに不満のはけ口を持っていきます。制服がその象徴。ちょっとでも電車が遅れると、駅員に食って掛かる人がいるでしょ?電車の遅れは人身事故であったり、架線トラブルであったり、駅員の責任ではないのに、言いやすいところにイライラをぶつけてしまう。この構図は公務員や教師も一緒。橋下知事は一番攻撃しやすいところ、つまり大阪府の職員や教師を責めて、その姿を府民に見せることによって、府民のストレスを幾分か解消させて、相対的に自分の人気上昇を図ってきたのです。
丹羽野 その行き着く先が教育基本条例と職員基本条例ですね。しかしさすがに「橋下知事はやり過ぎや」「元のテレビタレントに戻って」という声が出てきています。一方で「とにかく一回、壊してくれ」「強引やけど何かやってくれそう」という声もありますね。
小野田 マスコミの報道にも問題があります。橋下知事の発言はテレビで長く報道するのに、反対の論陣を張る人々の集会やデモなどの様子はほとんど報道しません。こんなに危険な条例なのに、府民の間で慎重に議論する時間もなく、短期間で決着されそうな状況です。マスコミの多くが、これを大阪府下だけの一地方の問題であるかのように扱っています。でもこれは大阪だけの問題ではなく、全国ニュースや全国紙がもっと取り上げて議論すべき問題です。最近ようやく「地方の教育行政は首長ではなく、教育委員会の権限。条例案を認めると、首長の選挙のたびに当選者の考えで学校教育がコロコロ変わってしまう事態に陥る」(高橋寛人・横浜市立大学教授。共同通信)とか「思い通りに動かせない教育委員会に不満を持つ首長は、橋下さんだけではない。大阪で条例化できるのならうちも、と考えるところが出てくる」(中嶋哲彦・名古屋大学大学院教授。朝日新聞)などの意見が掲載されるようになってきました。でもまだまだ「本質に迫る報道」は少ないように感じます。
丹羽野 我々も無関心ではなく、もっとこの条例案と、これが出てきた背景について議論をしていくべきですね。今年4月は「維新」というだけでたくさんの地方議員さんが当選されました。 でも、その政策についてどれほどみなさん議論されたか、何か「イメージだけ」で、選んでしまって後悔している人も多いのではないかと思うのです。
小野田 例えば大阪湾のWTCも、橋下知事は最初、「これほど素晴らしい物件はない」と言っていたでしょう、パッと見たイメージで。でも今回の地震でWTCは「使えないビル」であることが証明されました。結果、巨額の税金が無駄に使われてしまったのです。
「こんなはずではなかった」と後で後悔しないようにしたい。
人類が多くの犠牲と努力の上に手に入れた「自由にモノが言える社会」は何ものにも代えられません。熱狂と陶酔、不満と不信の中で、その自由と理性が疎んじられていくのです。自分には無関係だと思ってほしくない。そして橋下知事には、大阪はあなたの所有物ではないと言いたいのです。
丹羽野 限られた時間の中でしたが、橋下知事と維新の会が提案している教育基本条例の問題点が浮き彫りになりました。この危険性を知った人が多くの知人に訴えて、「教育基本条例反対の輪」を広げていかないとダメですね。今日は勉強になりました。ありがとうございました。