昨年11月、福島県に入った。故郷を奪われ、家を流され、家族を失った人々が、狭い仮設住宅でひっそりと暮らしている。東電が原発から20キロ圏内の人々に支払っていた月10万円の「生活補償金」も、9月から一方的に5万円に切り下げられた。家と仕事を失った人々が、「電気代がかかるから」と暖房器具にスイッチを入れず、凍える夜を過ごしている。悲惨な原発事故を引き起こした時点で政府と東電はすでに「犯罪者」であるが、このまま被災者を放置することで、政府と東電は罪に罪を重ねている。わざと補償を遅らせることで、被災者が亡くなるのを待って補償額を少なくしようとしているかのようだ。このまま被災者は棄てられていくのだろうか?
レポート 編集部
JR福島駅でレンタカーを借りて、まずは浜通りの相馬市を目指す。福島県は北海道、岩手県に次いで3番目に大きな都道府県。どこへ行くのも車がないと極めて不便だ。中通りの福島市から太平洋に面する相馬市までは阿武隈山地を乗り越えて、車を飛ばすこと1時間半。
相馬市新沼の食料品店中島ストアへ。中島孝店長が私を案内してくれる。店は高台にあったので無事だった。坂を降りると、海まで平坦な道が続く。国道6号線を越えるとそこには「何もない平原」が広がっていた。津波でほとんどの建物が流されたため、空が広く、高い。海岸に不気味な煙突がそびえ立っている。
「あれは何ですか?」
「あれはね、相馬共同火力発電所。東北電力と東電が共同出資して営業してたの。地震後は動いてないけどね」
「もしあれが原発だったら…」
「ぞーっとするね」。
火力発電の煙突をバックに、コンクリートの基礎部分だけが残っている家、壁がはがれ落ち家具が散乱している家、家屋が流され門柱だけが残っている家…。
犠牲になった高校生の家から相馬漁港へは車で10分ほど。左手に太平洋を見ながら、いまだに所々亀裂が入っている道を行く。
相馬漁港はいわゆる底モノ、カレイやヒラメなど高級魚が水揚げされていた。漁協のビル屋上に、セリ開始を知らせる大型サイレンが置かれている。サイレンは4本の柱で備え付けられている。
「あの日、最後まで漁協に残った職員たちが屋上に避難したのよ。でも津波はビルを乗り越えてきた。職員たちはあの柱にしがみついて命からがら助かった。寒かったし、雪も降ったでしょ。流されなかったけど、よく凍死しなかったなーって」。
翌日、福島市の笹谷仮設住宅へ。住民の全てが双葉郡波江町の出身。A1、B1など、同じ型の住宅に番号が振ってある。その中の1つE2の近藤昭子さん(仮名)宅を訪問。
「浪江町の川添に住んでいました。津波は大丈夫だったのですが、原発事故で避難せざるをえませんでした。3月12日の朝、パトカーがやってきて『早く避難しなさい』と叫んでいました。2〜3日で帰れると思っていたので、子どもを抱えて着の身着のままで避難。結局そのまま帰れなくなってこの状況です」
—お子さんは何人?
「3人です。子どものことを考えると、もう浪江町には戻れないです。10月下旬に甲状腺がんの検査もやりました。結果はまだ。今は元気にしてますが、半年後、数年後が心配です。もし何かの異常が出てきたら、補償してもらえるのでしょうか」
—家を新築されたばかりと聞きましたが。
「3年前、2008年に思い切って建てました。半端じゃないローンを払ってます。せめて家のローンはチャラにしてもらわないと。この狭い仮設では声が響くので「騒ぐな!」「泣くな!」の連発ですよ(笑い)。学校も転校を繰り返したので、子どもはしんどかったでしょうね。夏は暑いし、冬は寒いし…」
東北の冬は寒い。公園に建てられた仮設住宅には、取材時も寒風が吹き抜けていた。このままでは独居老人など、風邪をこじらせて亡くなる方も出てくるのではないか。
「がんばろう福島」「負けないっぺ福島」。こんな看板が目立つ福島の街。威勢のいいかけ声で人々を励まそうとする行政。でもこの標語には心がこもっていない。本当に必要なのは、「もう一度1から始めよか!」と再起できるような具体的サポートのはずだ。
地震直後はあれほど報道された被災者の生活も、原発事故もすでに「忘れ去られ」かけ、00シーベルト、××ベクレル、といった不気味な数字にも慣らされつつある。
「東日本大震災と、引き続く原発事故もいつか忘れてくれるだろう。その時まで首をすくめてじっと待てばよいのだ」。政府や東電の狙いは「時間切れ、あきらめ」だ。しかしこの社会には、決して忘れてはならないこと、心に刻み、後世に伝え、繰り返してはならないことがある。3・11がその1つであることは間違いない。
もうすぐ震災から1年を迎える。原発を進めてきた人々の「逃げ得」を許すのか、きちんと補償させるのか、それは私たちの世論にかかっている。