いささか、告白的な始まりで恐縮だが、僕の職業はTVCMディレクターで、特に、遊園地関係のCMを多く作ってきた。奈良ドリームランド、生駒山上遊園地、神戸ポートピアランド、エキスポランド、宝塚ファミリーランド、あやめ池遊園地…しかし、僕のせいだとは思わないが、残念ながら、関わった遊園地のほとんどが閉鎖してしまった。今では、枚方パーク、生駒山上遊園地、USJの三カ所だけ…実にさみしい。
そこで、わが吹田の話へ。「昔、千里山に遊園地があった」と聞いたことがある。場所は、今の関西大学の辺り…らしい。だが、よく分からない。こんな時は現地に行くしかないと、関西大学に取材を申し込んだ。しかし、「だいたいの場所は分かる程度で、痕跡は、ほとんど残っていない」という返事。「分かっている範囲でいいですから」と半ば強引に関西大学へ押しかけた。さて、そこで、見えてきたものは…今回は幻の「千里山遊園地」への、ささやかなトリップである。
(新山ひろし)
◆最初は「千里山花壇」だった◆
生駒山上遊園地の飛行塔
昭和4年、開園時に土井万蔵が製作。千里山遊園の飛行塔と同形、もしくは、似通ったものである。
阪急千里線の「関大前」駅を降りて、関西大学博物館をめざす。ここは、建築家の村野藤吾氏の取材で、一度、訪れたことがある。さっそくインタビューとなったが、学芸員の熊博毅さんは「最初は、千里山花壇という名前で…関大の歴史として研究しているのですが、何も残ってないんです。」とおっしゃる。
とは言え、熊さんは遊園地の歴史を研究しておられる方で、「関西大学トリビア」というタイトルでユニークな講演もされている。「千里山遊園」については、これ以上の人はいないだろう。そこで、いろいろ教えていただいたことを要約してみよう。 「千里山花壇」は、大正9年、北大阪電鉄(今の京阪電鉄)が、現在の第一高等学校・中学校の辺りに創設した。当時は「ひらかた遊園」と共に人気があったが、大正12年に経営が新京阪鉄道(今の阪急)に移り、音楽室、飛行塔、猿舎が設けられ、さらに華やかになった。その後、昭和13年に「千里山遊園地」と改称。昭和18年、戦時中は、時局に合わせて「千里山厚生園」と名前を変え、20年には軍事物資の貯蔵所となり遊園地は閉鎖された。戦後21年に再開し、「ひらかた遊園」に代わって、菊人形も開催した。しかし、その後はどんどん入園者が減少して、昭和25年、千里山遊園は廃園となった。閉鎖後は、関西大学が跡地を買い受け「関西大学外苑」と名付けられた。これが、「千里山遊園地」の歴史である。
◆都会的なセンスを感じさせる遊園地だった!◆
関西大学博物館の学芸員・熊博毅さん
「関西大学トリビア」というテーマで執筆・講演をしておられる。
大まかな歴史は理解できたが、なにか、面白いエピソードはないのだろうか。
熊学芸員は「この遊園地をめぐっては、電鉄の問題がからみます。大正10年4月に十三~豊津間で開業して住宅開発をしました。さらに、同年10月に千里山駅まで延伸して、さらに旅客誘致を勧めるために遊園地を作りました」と語る。なるほど、「千里山花壇」は、電鉄の旅客誘致の策として造られたのか。宝塚と同じ発想だなあ。阪神電鉄の「香櫨園」が明治41年頃、「枚方パーク」は大正元年、「宝塚歌劇」は大正3年、「千里山花壇」は大正9年だから、関西では、かなり早い時期に造られた遊園地であることが分かる。昭和3年の新京阪鉄道が発行した冊子『沿線案内』によれば「大阪近郊の数多い遊園地の中にあって、種々の都会的条件を具備しているのは、千里山だけである。夕食を済ませて10分あれば、このマジックランドに行ける」とあり、「春は梅・桃・桜、夏は納涼興行、秋は菊花壇…」と歌い上げる。都会的なセンスと同時に、春夏秋冬、家族向きの観光地でもあった。
◆最新の飛行塔がそびえていた◆
現在の関西大学。飛行塔は社会学部校舎の高台
大まかな歴史は理解できたが、なにか、面白いエピソードはないのだろうか。
ところで、「千里山遊園」の古い絵葉書を見ていて驚いたのだが、「千里山遊園」の「飛行塔」は、僕が撮影したことがある「生駒山上遊園地」の飛行望台から撮影した。ギシギシと鉄がきしむ音がしてスリル満点だった。飛行塔の生々しい記憶が蘇り、何だか「千里山遊園」が一気に身近なものに思えてきた。
◆「花壇踏切道」を発見◆
「花壇踏切道」。ここが、「花壇町」駅であり、「千里山花壇」の入口である。
さて、関西大学博物館で資料を撮影したり、話を聞かせてもらったりして、「千里山遊園」のイメージがようやく目に浮かぶようになってきた。次は実際に、千里山花壇の入口だった関大一高まで行ってみることにしよう。一高の入口は、すぐに丘になっている。これが「千里山」の原像なのだ。学園の中に入るのは遠慮して、周囲を歩くことにする。真ん前に阪急千里線が走っており、踏切があった。その踏切には、なんと「花壇踏切道」と書かれている。ここが「千里山花壇」の入口であり「花壇前」駅のあったところだ。ちなみに、この「花壇前」駅の名前は、めまぐるしく変わる。「花壇前」駅→「千里山遊園」駅→「千里山厚生園」駅→「女学院前」駅→「花壇町」駅。「女学院前」駅というのは、千里山遊園が廃止されて、その跡地に堺の女学校が移って来る予定だったから。結局、女学院は移転してこず、関西大学が購入することになり、「女学院前」駅は幻となった。トリビア的に言って、この場所は「日本で一番駅名が変わった駅」であるという。さて、それ以降は昭和39年まで「花壇町」駅が続いた。
当時、北にあった「大学前」駅と「花壇町」駅とが統合、二つの駅の中間地点に新たに「関大前」駅が設置された。
それが現在の「関大前」駅である。
◆「遊園地」とは、夢に抱きしめられる場所!◆
「千里山花壇」のポスター
さて、僕は今、関大全体を見渡そうと、円山町の高台にのぼっている。ここからは、「千里山花壇」の飛行塔があったという、今の関大社会学部の学舎が見える。あそこに土井万蔵の飛行塔がギシギシと音を立てて廻っていたのだ。
最初は、それこそ夢物語だった「千里山遊園」が、土井万蔵の飛行塔のことや、「花壇」と書かれた踏切の発見で、何だかとても親しみのもてる、実感のあるものになってきた。CMディレクターとして、遊園地のCMをたくさん作ってきた僕にとって、心が熱くなる体験でもあった。僕にとって、遊園地とは「夢そのもの」であり、同時に「夢に抱きしめられる場所」だった。「千里山遊園」も、僕にとっては、抱きしめてくれそうな幻なのである。
■協力■
関西大学博物館 情報局次長 熊博毅氏
■参考図書■
熊博毅著「関西大学トリビア」
「わかりやすい吹田の歴史」吹田市博物館
「近代日本の郊外住宅・千里山住宅地」
寺内信